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経営の現場は『知恵の宝庫』 疋田文明が注目する元気印企業を事例に 勝ち残る企業像、あるべき経営者像を 探求します。 |
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徳川家康徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。 本姓は、先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月8日ユリウス暦による。)に勅許を得て、徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。 概要徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代を画した。 家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。 当時の松平氏は、弱小な一地方豪族(国人)であった。広忠は、臣従していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、家臣の裏切りにより、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごした。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康と名を改めた。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の北条氏、越後の上杉氏と争い、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた。 天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した。この戦いで家康は軍略的には勝利したものの政略的には後れをとり、豊臣氏に臣従する結果となった。天正18年(1590年)、小田原の役において関東を支配していた北条氏が滅亡した後、秀吉から関東への領地替えを命じられた(関東移封)。長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった。 秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけた。慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。 元和2年(1616年)、駿府城にて死去。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、現在でも信仰の対象となっている。 生涯※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。 幼少期から初陣三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。 2歳の頃、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。 6歳の頃、広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に臣従し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、殺されてもおかしくなかったが、久松俊勝夫人となった御大の懇願もあったか、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。 2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の天文18年(1549年)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。このとき、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。また、忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。 駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の好意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある。 ただし、松平氏の家臣の立場としては走狗として酷使されたのは事実であり、また当の竹千代にとっても、今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど忍従の日々であり、後述のとおり今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害していることから、その松平氏の主観が後世に伝わり従来の通説となった。 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。 なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも明治時代まで存続した。 清洲同盟から三河国平定永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。 永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。 翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。 西三河を平定しかけた頃、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、徳川氏に改姓した。この改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることも公認させた。 遠江今川領への侵攻永禄11年(1568年)には、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始し(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、駿河侵攻に呼応した。 同年末からは遠江国の今川領へ侵攻し曳馬城を攻め落とした。軍を退かずに遠江国で越年し、翌永禄12年に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置いた(遠江侵攻)。 武田氏の駿河侵攻に対して今川の同盟国である相模北条氏は武田氏と対抗するが、遠江割譲を条件とする徳川と武田の同盟には摩擦が生じ、家康は駿河侵攻から離脱する。信長とも良好な外交関係を持つ武田氏は家康の懐柔を図るが家康は武田との手切を表明し、以来東海地方における織田・徳川・武田の関係は、武田と織田は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。 永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網を形成した際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。 武田氏との戦い武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされるが(『三河物語』)、永禄11年(1569年)には信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)に遠江国への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真と和睦すると北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、武田氏とは完全に手切となった。 家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保し、元亀3年(1572年)10月には徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。 武田氏は織田氏とは友好的関係であったが、信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を迎合して信長包囲網に加わり挙兵する。信玄は元亀3年(1572年)10月に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は織田氏に援軍を要請するが、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。 遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。 ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。夏目吉信に代表される身代わりに助けられて命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も、恐怖のあまり馬上で脱糞したとされている。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。なお、このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。 浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。 武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。 武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼は抵抗し、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を奪還し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。信長は家康に対して積極的な支援を行っていなかったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくされ、一方家康は戦勝に乗じて諏訪原城、二俣城を攻略し武田氏への優位を確保した。 なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。 天正6年、越後上杉氏で御館の乱が発生し、武田勝頼は北信に出兵し乱に介入するが、勝頼と結んだ上杉景勝が乱を制したことにより武田・北条間の甲相同盟が破綻し、翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。 また同じ頃、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられた。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達された。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させた。この事件については諸説あるが、近年では、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている(松平信康を参照)。 長篠の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は織田氏との和睦(甲江和与)を模索しているが信長はこれを封殺し、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(武田征伐)。 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待の為に莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。 また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔し、後に家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信が、徳川家に正式に帰参している。 本能寺の変と天正壬午の乱天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国まで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀がすでに討たれたことを知った。 一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領全土を委任されていた上野国の滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月程しか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て機内へ敗走し、甲斐国の河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が襲来。滝川一益は北条氏直を迎撃するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。 一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。徳川軍は、この北条軍と新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて真田昌幸が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。 小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、さらに影響力を強めた。 信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信忠嫡男・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(「岩田氏覚書」)。 天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は同13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、同17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は同28日に尾張小牧(小牧市)に着陣した。 秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると薬田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。同9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した。 小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。 戦後の和議は秀吉優位であったとされ、天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に叙任され、豊臣政権を確立する。 これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、武田遺臣で沼田領の旧領主で、武田氏滅亡後は信濃国上田城主として自立していた真田昌幸が越後国上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。 家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという『駿河土産』。 天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、同24日に家康は浜松を出立し上洛している。 家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。 豊臣家臣時代天正14年(1586年)11月1日、京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。 天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された。 同年、12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に叙任される(この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである)。このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。 その後、家康は北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始。家康も諦め豊臣軍の一軍として参戦した(小田原の役)。 なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得たノウハウと経験は新領地の関東統治に生かされた。 その後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には関東への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。 この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした小田原城ではなく、江戸城を居城とした。 関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、四公六民という北条氏の定めた低税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。 家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。
文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。 文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛(これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている)。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった。 慶長元年5月8日(1596年)、秀吉の推挙により内大臣に叙される。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。 慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。この時も家康は渡海しなかった。 慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』(静新新書・2007年)。 秀吉死後豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。この頃より家康は参謀の本多正信の献策に従い天下人への道を歩みだす。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。
この頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。 3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、公平ととれる措置を行った家康の風評が高まる結果となる。 9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を甲斐国・府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出したことで出兵は取りやめとなる。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。。 またこの頃、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。
関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。 これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状参照。)と呼ばれる書簡を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。 6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。 この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。 さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は本多正信と協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定) 。 東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし本多正信を参謀に付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。 正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。 9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い。)。 9月15日午前8時頃、美濃国・関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。なお、この日は奇しくも長男・信康の命日であった。 9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。 慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲の習慣を終わらせた(しかし豊臣秀頼の将来の関白就任は完全に否定されたということではない)。 征夷大将軍関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った。「将軍になれるのは清和源氏の嫡流」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を足利氏と同じく源義家に通じるように整備させた。 なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。なお、家康は松平姓から(勅許を得て)徳川姓に改姓した際に、「三河守の任官には藤原氏を称する必要がある」との近衛前久の勧めにより本姓を藤原氏と公称していた。また、実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍や皇族将軍の例もあるので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説とする説がある。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例である。必ずしも足利将軍家の歴代がこれらの官職に就任したわけではない。 同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。 これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となり、名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した。幕府開府に当たって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。 大御所政治慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。 慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。 慶長16年(1611年)、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である」ことを示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。 大坂の陣最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。 さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府にとっては大きな脅威となる危険性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。 家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた。 そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。 また、慶長17年(1612年)には佐々成政の外孫である鷹司信尚を関白に推挙している。 そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。 方広寺鐘銘事件豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。 さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。 この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。。 その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。 大坂冬の陣慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、淀殿や女官を心理的に疲弊させることで有利な条件で和睦にもち込むという戦略的勝利を得た。 和議の条件は大坂城の総堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊であった。 大坂夏の陣この頃、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。 これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失う。しかし、天王寺・岡山の戦いにおいて徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され、毛利勝永隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、雪崩のように攻め寄せる15万もの幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。ここに豊臣氏は事実上滅亡した。 「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の小説『徳川家康』ではこの説をとっている。 その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。 最晩年慶長20年(1615年)6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を家康は猶子とする。元和元年(1615年)9月9日、家康は禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。 元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられた。 死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説が有力であった。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日なので、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。なお、家康が問題の天ぷらを食べたのは田中城(現・静岡県藤枝市田中)であった。また『徳川実記』では家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と記載があり上記の症状が胃がん患者に多く見受けられた症状であったことから胃がんで亡くなったとの説が主流である 辞世の句として『東照宮御実記』に以下の二首を詠んだと伝わっている。
また、江戸城内においては天ぷらを料理することは禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされることもあるが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである。 年表
※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位権大納言昇叙転任」の宣旨では豊臣家康の名義でなされた可能性がある。同日付で息子徳川秀忠も侍従に任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本))。 同様に、同年12月28日付の「左近衛大将左馬寮御監両官職兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)に将軍・徳川家光の要請により朝廷が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣から源に変更した可能性がある。 ※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将及び左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。 人物・逸話
評価その戦上手は「海道一の弓取」と称され、江戸時代には家康は「神君家康公」と呼ばれ、公然と彼を批判対象とした評論を発表すれば処罰の対象となった。逆に明治から太平洋戦争後までは、朝廷を抑圧した「奸臣」として、賞賛することは慮られるようになった。戦後になって、ほぼ自由な家康批評が行われるようになった。 江戸幕府の支配に関して家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は極めて完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっている。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。 幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を与えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが家康の築いた江戸幕府であった。 このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、これほどまでの強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ世界史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実である。そのため、この江戸幕府の礎を築き上げた家康の手腕は今なお高く評価されている。 後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたもので、的を外している、また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。 家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。さらに家康はこの自らの主導による天皇即位をきっかけに、秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。 一族・譜代の取り扱いに関して息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。 長男・松平信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・松平忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。 関ヶ原の合戦において江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。 忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれるが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。 しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の役で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。 初期幕政を牛耳った本多正信により、徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から隔離し、この2人に次ぐ武功派であった大久保忠隣が大久保長安事件で改易・失脚されているのを家康は黙認している。大久保長安事件の折には、すでに大久保長安は死去して埋葬されていたが、正信は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしている。しかし、康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家など枚挙に暇がない。大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。 家康は吏僚の不正や造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前、彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。 また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。 家康と同時代の人々家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。 また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された『吾妻鏡』を愛読していた。 そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もある。 家康の渾名として「狸親父」というものがある。江戸時代の歌舞伎作品において、家康を暗喩する悪玉の名前として用いられたものである。明治以降は公然と家康の渾名として用いられるようになった。これは、家康が謀略に長けていたことを表すものであるが、同時に卑劣な人物であったという印象も与えるものであり、近年の家康に対する評価を大変低くさせている一因となっている。 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原合戦で使番が誤って馬を乗り入れた際に、激怒して門奈長三郎という小姓の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。 情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、真田信之、本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命するなど、感情に流されるケースもある。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。 家康と宗教戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。定説として、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたというのが通説だが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。 しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。そしてこの本願寺の東西分裂によって東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果的に、戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力という形をなさなくなったのである。かつて、信長は本願寺と交戦しその後和睦(実質的には降伏)し、長年猛威を振るってきた本願寺の権威を失墜させるなどの弱体化に成功し、秀吉はさらにこれを統制・懐柔しようとしたが、家康の場合はその関与の度合いは不明とは言え、結果的に本願寺を内部分裂させ、彼らの自滅を誘う形でその勢力を更に弱めており、この事も家康の老獪さを表す事象として捉えられることがある。 ただし、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し(教如を支持することで本願寺分裂を促すように家康に献策したのも正信である)、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。 また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受ける事を容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強い事も合わせて危険視した。その為、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬ事を理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。 これら新興の宗教以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗の知恩院を門跡に加え、更に天台宗・真言宗の頂点として輪王寺に門跡を設けて天台座主の座を独占した。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。 一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件や岡本大八事件、イスパニアやポルトガルのキリシタン船が島原地方の農民を他国に奴隷や娼婦として人身売買を行っていた事実が発覚したこともあり天正18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。 家康の死後、幕府は寺請制度等により、宗教を完全に公儀の下に置くことに成功している。これについてはそれぞれの立場(権力・宗教)によって、正反対の評価が下されるであろう。 近現代における評価明治維新後に家康の悪評が高まったのは、明治政府が江戸幕府を倒して建てられた政権であり、江戸幕府を悪とするのが明治政府にとって都合が良いことであったからと言える。特に太平洋戦争前は、秀吉の朝鮮出兵が大日本帝国における、帝国主義的な領土拡大と合致し、「朝鮮征伐」と称されるほど是とされていたため、「秀吉は清君、それに背いた家康は奸君」と偏った評価をされることが多かった。この時期は家康らの尊敬の対象であった平将門や足利尊氏に対しても朝廷に刃向かった逆賊として批判的な評価がなされていた時期である(尊氏に対しては家康も批判的だったとする説もある)。 山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼い頃から我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説によって家康への再評価が始まり、それは現在も続いている。そのため、家康を苦労人・不屈の精神力の持ち主として高く評する者もあるが山岡の家康は美化し過ぎであるという評価がある。 天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。 一族縁者家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱、徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。
墓所・霊廟・神社家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬された。神号は側近の天海と崇伝の間で、権現と明神の何れとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされ、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。東照社は正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。 現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺、高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。なお、徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる。 なお、徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。 注釈脚注参考文献
関連事項史料
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外部リンク
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